生きる意味は必要か?
人は生きている意味を見出せないと生きられない生き物なのかもしれません。
ここ最近では、発達障害とされる人が増え(あるいはもともと潜在的に存在していたけれど、診断を受けることの敷居が下がったせいか、発達障害であることをカミングアウトする人増えたのかもしれません)、配慮がないと生きづらい社会となり、また原則自らの自助努力で生きることを国は強いているのが現実なので、人並みにできないことが多いと、たちまち生きる気力を失い、「なんで生きるのか?」「何のために生きるのか?」という方向へベクトルが回っていくことがあります。
ただ、これは何も発達障害等の障害を患っているか否かに関わらず、誰しもが人生で一度は抱く疑念であると思います。
それは「どう生きるか?」という問いよりも、「なぜ生きるのか?」のというの方が、重症度は遥かに重いでしょう。
この「どう生きるか?」と「なぜ生きるのか」の違いはお分かりでしょうか?
物質的にあまりにも恵まれ過ぎた世の中になったからこその悩みかもしれません。
食べるものがない、着るものがない、住む場所がないとしたら、皆さんはどうされますか?
一番分かりやすい事例としては、「横井庄一さん」ではないかと思います。もう既に「横井庄一さん」という方がどのような人か分からない人も多い時代になったのかもしれませんが、戦後グアム島で一人生き残った日本兵として27年後に帰国を果たされた方です。
この方、グアム島のジャングルで一人、何もない中を生き抜いた方です。何もない環境の中を、です。もちろん家などありませんから、洞窟や自ら木を使って住まいをこしらえたり、衣類もないので、木の繊維で編んで衣服を作ったり、食べ物は川や山へ魚を取ったり、虫を取って食べたりと、飢えを凌いでいたと聞きます。
なんという生きる力の強い人なのだろうと、その話を聴いたときに思いました。
今は、何でもそろっている環境で、衣食住は当たり前のように生まれた時から準備されている環境にあるのが、今の私たち現代人です。
生きることに必死にならなくても良くなったので、娯楽がどんどん進化しているといえるでしょうか。その最たるはゲームや動画ですね。退屈しのぎの恰好の産物です。
もしかしたら、「生きる」こと自体、退屈なのかもしれません。退屈を厭うと、退屈を避けるために、あれこれとやることを探し出し、生き甲斐なるものを見つけ出そうとします。
ゲーム三昧になるのも、退屈が嫌で刺激の強いものを求めようとするから、ゲーム依存などの障害や病気が出てくるのかもしれません。
退屈は良い悪いで判断されるものでもないと思うのですが、この世の中では退屈は「悪」とジャッジされてしまうようですね。
ですから、余計に忙しい世の中になってしまっているのかもしれません。便利な生活を求めてネットや家電製品が進化して、家事なども楽になっているはずなのに、余計に忙しさを増すばかりになっているようです。なんだか本末転倒です。
退屈を超えた先に、真の安らぎというものがあるのではないかと感じられるのが、ここ最近の想いです。
それは「禅」や「瞑想」に近いものではないかと思います。座禅や瞑想をきちんと身に着けると、心身の疲れが取れ、スッキリとした感覚を得られるようになります。
その感覚を得るためには、静まり返った空間に一人、身を置く時間を作ることをお勧めします。一人になれる空間がない人は、トイレやお風呂などでも良いので、短い時間でも構わないので、一人静かになれる場所を見つけておくと良いでしょう。
そして5分で良いので、一人静かに目を閉じて、静かに心身を整える時間を設けることをお勧めします。
そのような時間を持てるようになると、「ただ生きている」というだけで、十分に有難く幸せであることが感じられるようになります。
あくせくと「なぜ生きるのか」を考える必要もなくなります。
ただ、そのまま、あるがまま、自然に。

