障害という名の免罪符

 時折、稀にですが、障害を免罪符にして周囲を自分の都合の良いように操作する人がいます。

 事例で言えば、私が実際に対応した相談者の方で「場面緘黙」「社交不安障害」の人がみえました。

 

 場面緘黙なので、当然話をすることがありません。通訳者(?)としてその相談者の親が同席していましたが、首を縦に振ったり、横に振ったり、傾げたりして、一応の意思表示はかろうじてしますが、筆談もスマホのメモに入力して意思表示をすることもしないで、意思疎通にはこちらが骨を折ります。

 

 本人が答えやすいように「イエス」「ノー」で反応できるような言葉にして質問したり、視覚で分かるような物を出して説明したり・・・、と、兎に角支援者側が本人の意思表示がしやすいように工夫をして、意思の疎通を図ります。

 

 支援者は支援をするのですから、上記のような工夫は当たり前と言えば、そうなのですが、本当に「何とかしたい」「良くなりたい」「治りたい」という意思のある人は、しゃべることができなくても、どうにかして何らかの手段で自分の思いを伝えようとしてきます。

 

 しかし、私が対応した相談者は、一切自分から自分の意思を伝えようとすることをしません。

 病院へ通院したり、その病院に併設されているカウンセリングを利用しても「変わらないから」と言って、中断してしまいました。

 

 そして、「今の現状をどうにかしたい」ということで私のもとに来ましたが、結局のところ、この方は「変わりたい」のではなく、「変わりたくない」ことを決心しているのではないかと思うのです。

 

 「場面緘黙」という症状を免罪符にして、「私は場面緘黙だから、周囲の人たちが理解してくれて当たり前」「周りの人たちがどうにかしてくれて当たり前」だと思っているのでしょう。

 

 「自分の意思を伝えることをしないということを続けるのであれば、逆に徹底的に場面緘黙を貫いて生きていきますか?その覚悟はありますか?」と訊いたら、目を丸くして青ざめた顔をしていました。

 他にも社交不安のある人、場面緘黙の人を何人か見てきましたが、現状を何とかしたいと必死になっている人は、やはり何らかの行動を起こしていますし、必死で自分の気持ちを伝えてきます。そして、こちらから「こうしてみるのはどうでしょう?」と提案すると、実際に行動に移します。失敗したら「どうしたら良いか?」と、また相談にやってきます。

 

 本当に改善をしたい人は、こうして行動に移し、トライ&エラーを繰り返して、だんだんと症状は軽減していくプロセスを辿っていきます。

 

 行動に移すということは、病気や障害を持っている人に限らず、皆、誰もが勇気を以って行動に移します。

 その時その時で勇気を出して「決断」をすることになるわけですから、大変なエネルギーを要します。

 特に社交不安障害を持たれている方の場合、自分が恐れていることに対して向かっていかなければならない場面も多いので、当然その恐れと、恐れていたことが現実に起きるリスクがあるとなると、躊躇して行動化できず、その不安が体の症状等として表に現れるのは、それはそれはつらいものです。

 

 しかし、ここで一歩を踏み出さなければ、ずっと変わることはないのです。

 そこに甘えていつまでも症状や障害を免罪符にして周囲のせいにし続ける人生を歩むのか、あるいは恐れを超えて勇気を出して一歩前に進むかは、結局のところ、その人自身の課題であり、その人の人生の責任でもあるのです。

 

 自分の人生の責任は自分でしか負うことができません。周囲の人のせいにするものでもありません。

 

 勇気を出すために、そして、失敗してもそれを支えて、再び前に進もうとする勇気を出せるように支えるのが、支援者の役割であるのです。

 

 さあ、あなた様は症状を免罪符にして生きる道と、勇気を出して一歩前に進む人生の、どちらの人生を歩みますか?

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